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瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)
1922.5.15~2021.11.9
作家・僧侶。徳島市出身。「女子大生曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞、「田村俊子」で第1回田村俊子賞、「夏の終り」で第2回女流文学賞受賞。作家としての地位を確立し、幅広い文学活動ののち、1973年、中尊寺で出家得度。出家前の名は晴美。その後も旺盛な創作活動を続け、「花に問え」(谷崎潤一郎賞)、「白道」(芸術選奨文部大臣賞)、「場所」(野間文芸賞)、「風景」(泉鏡花賞)などの代表作がある。1997年文化功労者。1998年「源氏物語」現代語訳完結。2006年文化勲章受章。

モラエス(Wenceslau de Moraes)
1854.5.30~1929.7.1
ポルトガル・リスボン市に生まれる。ポルトガルの海軍士官として日本を訪れ、1895年、『極東遊記』をリスボンで出版。99年、神戸大阪ポルトガル領事に就任し、徳島市出身の芸妓福本ヨネと暮らす。1912年にヨネが死去すると、翌年領事を辞任して徳島市に移り住み、ヨネの姪、齋藤コハルと同居した。『徳島の盆踊』や『おヨネとコハル』をポルトで刊行し、日本の歴史や文化などを海外に発信した。

賀川豊彦(かがわ とよひこ)
1888.7.10~1960.4.23
神戸市に生まれ、板野郡堀江村(現・鳴門市大麻町)で少年期を過ごす。キリスト教の洗礼を受け、生活協同組合運動や関東大震災の被災者救済など、生涯をかけて社会活動を展開した。神戸のスラム街での貧民救済を基にした小説「死線を越えて」は世界的なベストセラーとなった。1947年と翌年にノーベル文学賞候補、54年から56年まで3年連続でノーベル平和賞候補に推薦された。

生田花世(いくた はなよ)
1888.10.12~1970.12.8
板野郡泉谷村(現・上板町泉谷)に生まれる。大正の初め、雑誌「青鞜」などで活躍。生活の辛酸をなめながらも文学への思いを持ち続け、小説、詩、短歌、随筆など多くの作品を残した。戦後は「源氏物語」を講義し、のちに「生田源氏の会」として評判を呼んだ。

悦田喜和雄(えつだ きわお)
1896.8.21~1983.3.21
海部郡三岐田村(現・美波町木岐)に生まれる。農業をしながら土の香りのする小説を書き続けた。武者小路実篤の思想と文章に感銘を受け「新しき村」に参加。宮崎の「新しき村」にも何回か訪れ、農業を教えた。大正時代に「白樺」「改造」「中央公論」「新潮」などに作品を発表。滝田樗陰(「中央公論」編集長)に認められたが、樗陰没後は文芸雑誌への発表が減った。戦後は「四国文学」を創刊し、佃實夫など後進の育成にも力を注いだ。

海野十三(うんの じゅうざ)
1897.12.26~1949.5.17
徳島市に生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、逓信省電気試験場に勤務し、無線の研究に従事した。1928年「新青年」に科学推理小説「電気風呂の怪死事件」を発表。その後、優れた空想力と科学の知識を生かし、冒険、推理、科学小説を数多く執筆した。日本SFの父と呼ばれ、小松左京や手塚治虫らに影響を与えた。また江戸川乱歩や横溝正史、木々高太郎、小栗虫太郎ら推理作家との交流も深かった。

貴司山治(きし やまじ)
1899.12.22~1973.11.20
板野郡鳴門村(現・鳴門市鳴門町)に生まれる。昭和の初め、「ゴー・ストップ」などのプロレタリア文学を執筆した。プロレタリア文学はマルクス主義の理論を踏まえた高尚なものではなく、労働者や農民が読むものだと主張し、徳永直らとプロレタリア大衆文学を目指す。治安維持法違反容疑で検挙され、1934年朝日新聞紙上に転向声明を発表。戦後は時代小説などを数多く書いた。また文芸雑誌「暖流」を創刊し、徳島の作家の育成にも尽力した。

野上 彰(のがみ あきら)
1909.2.15~1967.11.4
徳島市に生まれる。「囲碁春秋」「囲碁クラブ」の編集長を務め、文人碁会を企画、川端康成らと親交を結んだ。戦後は「火の会」を結成し、芸術前衛運動を推進した。『前奏曲』などの詩集を残したほか、「落葉松」などの作詞、「オリンピック讃歌」「パフ」(ピーター・ポール&マリー)などの訳詞でも才能を発揮。童話『ジル・マーチン物語』、小説『軽井沢物語』や戯曲集『蛾』を刊行するなど、文学の幅広いジャンルで活躍した。

富士正晴(ふじ まさはる)
1913.10.30~1987.7.15
三好郡山城谷村(現・山城町)に生まれる。詩人を志し、竹内勝太郎に師事。戦後は島尾敏雄らと同人誌「VIKING」を創刊。51年「敗走」、54年「競輪」で芥川賞候補、64年「帝国軍隊に於ける学習・序」で直木賞候補になった。68年「桂春団治」が毎日出版文化賞、大阪芸術賞を受賞。歴史小説「豪姫」は宮沢りえ主演で映画化された。竹藪に囲まれた一軒家で暮らし、「竹林の隠者」と呼ばれた。独特の味わいのある書画も数多く残している。

北條民雄(ほうじょう たみお)
1914.9.22~1937.12.5
朝鮮京城府(現・ソウル)に生まれ、阿南市で育つ。高等小学校卒業後、上京してプロレタリア文学を志すがハンセン病を発病し、全生病院(現・多磨全生園)に入る。病院から川端康成に作品を見てほしいと手紙を書き、作品を執筆。代表作「いのちの初夜」は、小林秀雄が「文学そのもの」と評するなど文壇に衝撃を与え、第2回文學界賞を受賞、芥川賞候補にもなった。作品集『いのちの初夜』がベストセラーになったが、腸結核などで23年の短い一生を終えた。

森内俊雄(もりうち としお)
1936.12.12~2023.8.5
大阪市に生まれる。戦時中、父母の故郷である徳島に疎開し、徳島大空襲を経験。その体験を小説「眉山」などに描いた。1969年「幼き者は驢馬に乗って」で文學界新人賞を受賞、芥川賞候補になった。以後70年「<傷>」、71年「骨川に行く」、72年「春の往復」、73年「眉山」が芥川賞候補に。73年「翔ぶ影」で泉鏡花賞、90年「氷河が来るまでに」で読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

新居 格(にい いたる)
1888.3.9~1951.11.25
板野郡大津町(現・鳴門市大津町)に生まれる。1900年、徳島中学校に入学。一学年上にいとこの賀川豊彦がいた。東京帝大法学部卒。新聞記者として活躍したあと、評論活動を展開した。モダニズム文学や当時の風俗に造詣が深く、モガ・モボという言葉を作ったと言われる。パール・バック「大地」の翻訳は、今も読み継がれている。

中野好夫(なかの よしお)
1903.8.2~1985.2.20
愛媛県に生まれ、幼少のころ徳島市に移り住む。東京帝大文学部を卒業後、教職を経て東大教授となったが、経済的不遇を表明して辞職、社会的反響を呼んだ。英文学者、評論家として活躍し、シェイクスピア、スウィフト、モームらの研究で知られる。また「ベニスの商人」、「ガリヴァー旅行記」、「月と六ペンス」など数多くの作品を翻訳。「蘆花徳冨健次郎」で大佛次郎賞を受賞した。

荒 正人(あら まさひと)
1913.1.1~1979.6.9
福島県に生まれ、少年期を徳島で過ごす。東京帝大英文学科卒。1939年、雑誌「構想」「現代文学」の創刊に携わる。戦後間もなく、埴谷雄高らと「近代文学」を創刊。「第二の青春」などの評論を発表した。漱石の研究でも知られ、「漱石研究年表」で毎日芸術賞を受賞した。

佐古純一郎(さこ じゅんいちろう)
1919.3.7~2014.5.6
名西郡鬼籠野村(現・神山町)に生まれる。1941年、改造社が募集した文芸推薦評論に「歴史と人間」が佳作入選。43年、創元社に入社、小林秀雄と出会う。48年、洗礼を受け、以後キリスト教信仰の立場から多くの評論を発表。57年、朝日新聞に発表した「文学はこれでいいのか」で論争を巻き起こした。著書に『夏目漱石の文学』『パウロと親鸞』など。出身校、二松学舎大の学長を務め、教育でも功績を残した。

佐藤輝夫(さとう てるお)
1899.1.10~1994.4.13
名東郡国府町(現・徳島市国府町)に生まれる。フランス中世文学研究の第一人者で、日本における外国文学研究がまだ未熟だった頃、独力でその水準を世界的レベルにまで引き上げた。著書『ヴィヨン詩研究』で読売文学賞、『ローランの歌と平家物語』で日本学士院賞を受賞するなど、フランス中世文学研究および比較文学研究に大きな足跡を残した。

井上 勤(いのうえ つとむ)
1850.9.15~1928.10.22
明治初期に翻訳家の草分けとして活躍した。名東郡前川村(現・徳島市南前川町付近)に藩医、井上不鳴の子として生まれる。オランダ人に英語を学び、徳島長久館洋学助教授を務めたあと、神戸のドイツ領事館で独文筆写の仕事をする。1880年のジュール・ヴェルヌ「月世界旅行」を皮切りに、トマス・モア「良政府談(ユートピア)」、シェイクスピア「人肉質入裁判(ベニスの商人)」、ダニエル・デフォー「ロビンソン漂流記」などを翻訳、ゲーテの作品も初めて日本に紹介した。

三田華子(みた はなこ)
1900.5.15~1983.10.13
徳島市古物町(現・南新町)に生まれる。1935年、文学を志し、一家で上京。39年に日本大学法文学部に入学する。40年、「石切場」が芥川賞候補に。戦時中は徳島に疎開、戦後は東京に戻り、同人誌を創刊したり、女性の地位向上を目指す「あけぼの会」に参加した。東京で暮らしながら、「阿波狸列伝」をはじめ、郷土徳島に関する作品を書き続けた。

木本正次(きもとしょうじ)
1912.10.5~1995.1.26
海部郡牟岐村(現・牟岐町)に生まれる。神宮皇學館卒業後、大阪毎日新聞入社。記者として活躍するかたわら作家を志し、長谷川伸に師事した。60年「刀塚」で直木賞候補となる。64年「毎日新聞」に「黒部の太陽」を連載、68年に映画化され、三船敏郎、石原裕二郎のダブル主演で話題を呼んだ。「砂の十字架」や「反逆の走路」などのドキュメンタリー小説を数多く執筆した。

岡田みゆき(おかだ みゆき)
1917.10.5~2008.1.12
徳島市に生まれる。小中学校の教員をしながら、同人誌「徳島作家」などに数多くの小説を発表。中でも代表作「石ころ」は、戦後間もなく山奥の小学校に赴任した子連れの女性教師が、さまざまな困難にぶつかりながら懸命に生きようとする姿を描き、芥川賞候補になった。生涯にわたって、きめ細かな観察眼と誠実な作風で人生の機微を描き続けた。

田中富雄(たなか とみお)
1918.3.7~2004.12.17
徳島市佐古町(現・佐古四番町)に生まれる。戦後、野上彰の「火の会」に共鳴し、短歌から小説に転向。「蓄銭叙位」がサンデー毎日の懸賞小説の候補になる。徳島新聞に小説を連載する一方、同人誌「徳島作家」を創刊。「生口記」が全国同人誌最優秀作品に選ばれ「文學界」に転載された。77年「血の記憶」が歴史文学賞の佳作になった。

中川静子(なかがわ しずこ)
1919.3.22~1994.1.27
麻植郡東山村(現・吉野川市川島町)に生まれる。歴史小説「幽囚転転」と現代小説「白い横顔」が立て続けに直木賞候補になった。幼い頃に父を亡くし、小学校を出ると子守奉公に出されるなど、実生活での苦労が作品ににじんでいる。「阿波に生まれて、藍を書かなければ死んでも死にきれない」と最晩年に入退院を繰り返しながら書いた「藍師の家」は、記念碑的な作品となった。

古田芳生(ふるた よしお)
1920.3.24~1995.3.23
徳島市に生まれる。銀行に勤めながら小説を書き、「三十六号室」、「孤児」で立て続けに芥川賞候補になった。いずれも巨大な組織や理不尽な社会に押しつぶされそうになりながら懸命に生きる人々を描いた力作で、「三十六号室」はNHKのテレビドラマにもなった。このほか、阿波踊りの街を舞台に、ただ踊るしかない人間の哀しみを描いた「よしこの」などの作品を残している。

佃 實夫(つくだ じつお)
1925.12.27~1979.3.9
那賀郡新野町(現・阿南市新野町)に生まれる。図書館に勤務しながら小説を書き、「ある異邦人の死」が芥川賞候補になる。63年に上京し、「わがモラエス伝」「阿波自由党始末記」などを執筆。69年、『定本モラエス全集』を刊行し、ポルトガル政府よりエンリケ勲章を受けた。

丸川賀世子(まるかわ かよこ)
1931.1.26~2013.10.25
徳島市に生まれる。1963年、「巷のあんばい」で第6回婦人公論女流新人賞を受賞。これを機に「小説現代」や徳島新聞などに、中間小説や吉野川市出身の喜劇役者・曽我廼家五九郎を描いた『浅草喜劇事始』などの伝記小説を発表。作家の有吉佐和子とは身内同然の付き合いがあり、著書に2人の交友を描いた『有吉佐和子とわたし』がある。

原田一美(はらだ かずみ)
1926.8.24~2016.3.1
麻植郡山川町(現・吉野川市山川町)に生まれる。小学校で児童と取り組んだホタル研究を描いた『ホタルの歌』で、第1回学研児童ノンフィクション文学賞に入賞。十六地蔵や板東俘虜収容所、青い目の人形アリスちゃんなど、徳島ゆかりの題材を通して平和を訴える作品も数多く残した。

鈴木 漠(すずき ばく)
1936.10.12~
詩人。徳島市籠屋町に生まれ、幼少年期を祖谷で過ごす。池田高校卒業後、神戸の海運会社に就職し、1959年、詩誌「海」を創刊。詩や連句作品を多数発表している。81年、詩集『投影風雅』で日本詩人クラブ賞、91年連句集『海市帖』で連句協会推薦図書表彰。このほか94年井植文化賞、2002年徳島県文化賞、05年神戸市文化賞、10年兵庫県文化賞を受賞した。

今枝蝶人(いまえだ ちょうじん)
1894.10.22~1982.9.17
俳人。徳島市富田浦町(現・南仲之町)に生まれる。教師を務める傍ら、1917年、臼田亜浪の「石楠」に参加。30年に「鳴門」創刊、35年に「海音」を創刊した。戦後は46年に「向日葵」を創刊し、徳島俳壇の礎を築いた。65年「向日葵」と訣別し、「航標」を創刊した。

佐野まもる(さの まもる)
1899.5.10~1984.7.14
俳人。徳島市徳島町(現・中徳島町)に生まれる。水原秋桜子に師事し、「馬酔木」の中心メンバーとして活躍した。1931年、秋桜子とともに「ホトトギス」を離れ、33年「馬酔木」の第一期同人となった。専売公社に勤め、四国各地を転勤した後、徳島市で「海郷」を創刊、主宰した。遍路俳句の第一人者としても知られた。

武原はん(たけはら はん)
1903.2.4~1998.2.5
徳島市籠屋町に生まれる。地唄舞の第一人者として活躍する一方、俳人「はん女」として優れた句を残した。1939年、高浜虚子に師事。一日一句を心がけ、舞を題材にした句を数多く詠んだ。85年、伝統芸能保持による功績で日本芸術院会員に。88年文化功労者、89年東京都名誉都民、徳島市名誉市民となった。

橋本夢道(はしもと むどう)
1903.4.11~1974.10.9
俳人。名東郡北井上村(現・板野郡藍住町)に生まれる。1922年、河東碧梧桐の自由律俳句に感動し、荻原井泉水の「層雲」に入門。プロレタリア俳句に傾倒し、「旗」や「俳句生活」を創刊。41年治安維持法違反容疑で逮捕され、翌年まで拘置された。獄中で詠んだ「うごけば寒い」などは有名。戦後も生活に根ざした句や愛する妻を詠んだ句、故郷の阿波踊りや鳴門を詠んだ句を数多く残した。

上﨑暮潮(うえさき ぼちょう)
1922.3.19~2013.11.6
徳島市に生まれる。阿南工業高等専門学校で教授をしながら俳誌「ホトトギス」、「祖谷」に作品を発表。1988年から「祖谷」主宰。高浜虚子の弟子として、花鳥諷詠・客観写生を貫き、阿波藍、四国遍路、阿波踊りなど、徳島の風物に愛情を込めて詠んだ句を数多く残している。晩年は超結社のモラエス忌句会を創設、モラエス忌の季語化を目指す活動にも力を注いだ。

斎藤梅子(さいとう うめこ)
1929.2.14~2013.5.27
那賀郡羽ノ浦町(現・阿南市羽ノ浦町)に生まれる。1986年、第1句集『藍甕』で第10回現代俳句女流賞を受賞。日本画でも徳島県美術展で2年連続特選というマルチ才女だった。92年に俳誌「青海波」を創刊、主宰した。2002年、徳島新聞賞・文化賞を受賞。

井上羽城(いのうえ うじょう)
1871.2.9~1947.9.30
歌人。福井県に藩医、井上一菴の子として生まれ、少年期に漢詩や俳諧、歌を学ぶ。第四高等中学校医学部に入学するが、文学への志を抑えられずに上京、落合直文門下に入る。1894年「浅香社」に加入し、与謝野鉄幹や大町桂月らと交友。97年、徳島の新聞社に入社し、小説、詩、短歌、俳句を新聞に発表するなど、徳島文壇のリーダーとして活躍した。

逢坂藍水(おうさか らんすい)
1878.11.13~1949.2.11
歌人。美馬郡半田村(現・つるぎ町半田)に生まれる。第三高等学校医学部に在学中、新聞や雑誌に評論、短歌、詩を投稿して入選を重ねた。1898年、新詩社創立に参加し、与謝野鉄幹の指導を受ける。「明星」に多くの短歌を発表したほか、戦後は歌誌「徳島短歌」の創刊に加わった。

松永周二(まつなが しゅうじ)
1884.6.6~1972.2.11
歌人。徳島市通町に生まれる。17歳から「明星」で活躍。与謝野鉄幹・晶子夫妻との交流が深く、夫妻が徳島を訪れた際は松永家に立ち寄った。1953年、明星派の歌人によって創刊された「雲珠」に参加。歌を詠む一方、「晶子真言抄私訳」と題して晶子の歌を解説。71年、歌集『天地一馬』を刊行した。書画、茶、謡曲をたしなむ文人墨客でもあった。

小西英夫(こにし ひでお)
1892.12.23~1955.7.23
歌人。名西郡高志村(現・板野郡上板町)に生まれる。村役場で働きながら、雑誌に詩文を投稿。「学生」に投稿した評論文が大町桂月選に一等入選する。1919年長女、瑠璃の死を悼んだ歌集『瑠璃草』を刊行。21年、徳島新聞に入社。23年、太田水穂主宰の「潮音」に参加した。34年「全徳島歌人協会」を結成。戦後は「徳島短歌連盟」をおこし「徳島短歌」を創刊した。

保科千代次(ほしな ちよじ)
1906.5.20~1997.2.27
歌人。勝浦郡生比奈村(現・勝浦町)に生まれる。教員として国語教育に携わり、瀬戸内寂聴や佃實夫らを教えた。戦後「徳島歌人」の創刊に関わり、県歌人クラブ会長を務めるなど、徳島歌壇の指導的役割を果たした。

河合恒治(かわい つねはる)
1911.1.31~2005.9.17
愛知県豊橋市に生まれる。海軍兵学校卒。1943年、那賀郡羽ノ浦町(現・阿南市羽ノ浦町)に移り住む。海軍軍人としての戦争体験から、多くの仲間が戦死した藍色の海は生涯変わらぬ重要な題材で在り続けた。64年、歌誌「四国水甕」を創刊し、主幹に。徳島県歌人クラブ会長も長年務め、多くの歌人を育てた。

村崎凡人(むらさき ただひと)
1914.1.12~1989.5.10
歌人。徳島市出身。早稲田大学在学中から窪田空穂に師事し、「評伝窪田空穂」で半田良平賞を受賞した。戦後「徳島歌人」の創刊に編集同人として参加。戦争体験を基にした歌集『比島戦記』などを出版した。また徳島女子大学(現・徳島文理大学)を創設し、教育にも力を注いだ。

柏原 千惠子(かしはら ちえこ)
1920.1.26~2009.6.25
徳島市に生まれる。徳島高等女学校(現・徳島県立城東高等学校)卒。1959年、「幾千の朝」で第2回短歌研究新人賞の推薦賞となる。68年、歌誌「七曜」を創刊、主宰した。82年、第2歌集『水の器』が現代歌人協会賞候補に。95年、所属する中央結社「未来」特別賞を受賞。

山下富美(やました ふみ)
1925.3.24~2012.8.20
徳島市に生まれる。徳島高等女学校(現・徳島県立城東高等学校)卒。1958年、警察官の夫との暮らしを詠んだ「人像標的」で第1回短歌研究新人賞の推薦第1位に。64年、河合恒治らとともに歌誌「四国水甕」を創刊。71年、全国結社「水甕」の水甕賞を受賞。

斎藤祥郎(さいとう しょうろう)
1927.6.13〜2009.11.5
大阪府大阪市に生まれる。広島高等師範学校を卒業後、教師になり、徳島県内の高校で国語を教える。1967年、歌誌「徳島歌人」主宰。徳島県歌人クラブ会長を長年務めたほか、1993年、「徳島中・高生短歌の会」を組織し、若手歌人の育成に努めた。2003年、徳島県文化賞を受賞。

貫名菘翁(ぬきな すうおう)
1778(安永7)〜1863(文久3)
徳島城下御弓丁(現・徳島市弓町)に生まれた。名は直知・直友・苞(しげる)。号は菘翁のほか海客・海屋などがある。“ 晋唐の伝統的な書法の上に、日本的な優美さをよく融化して、渾然とした書の世界を現出した ”と評され、市河米庵、巻菱湖とともに幕末の三筆に数えられる。

中林梧竹(なかばやし ごちく)
1827(文政10)〜1913(大正2)
肥前国小城郡(現・佐賀県小城市)に生まれた。名は隆経。長崎で余元眉、中国・北京では潘存に書を学び、日本の近代書道の先駆けとなった。日下部鳴鶴、巖谷一六とともに明治の三筆に挙げられる。著書に『梧竹堂書話』がある。昭和34年、海老塚的伝氏より梧竹晩年の傑作約300点が徳島県に寄贈され、県有形文化財に指定されている。

小坂奇石(こさか きせき)
1901(明治34)〜1991(平成3)
海部郡三岐田村(現・美波町)に生まれた。名は光太郎。昭和30年「璞社」を創設し、42年書道研究誌「書源」を創刊した。32年から平成4年まで、現代書道二十人展に出品。昭和45年日展文部大臣賞、55年徳島県文化賞、56年には日本芸術院恩賜賞・芸術院賞を受賞した。著書に『黙語室雑記』『黙語堂雑記』などがある。

那波魯堂(なわ ろどう)
1727(享保12)〜1789(寛政元)
播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)に生まれた。名は師曾。古学派の岡白駒に学び、30歳で聖護院宮忠誉法親王の侍講となり家塾を開いた。門人に菅茶山がおり、頼山陽と交流があった。のちに朱子学に転向し、阿波藩儒として招かれ「四国の正学」と呼ばれた。書は草書をよくした。著書に『学問源流』がある。

柴野栗山(しばの りつざん)
1736(元文元)〜1807(文化4)
讃岐国三木郡牟礼村(現・香川県高松市)に生まれた。名は邦彦。18歳で上京し昌平黌に学び、明和4年(1767年)より阿波藩に招かれ20年間藩儒を務めた。のち幕府の儒官となり、老中松平定信の信任を得て「寛政異学の禁」に力を尽くした。「寛政の三博士」の筆頭に挙げられる。

村瀬栲亭(むらせ こうてい)
1744(延享元)〜1818(文政元)
父は阿波国阿波郡香美村(現・阿波市市場町)の人。名は之煕。父に医学と儒学を学ぶ。40歳で秋田藩儒官として迎えられ、また藩の総奉行として藩改革を補佐するなど重用された。その後京都に塾を開き、田能村竹田・中島棕隠など多くの門人を育てた。博学で詩文に長じ、書画に優れ、書は行書をよくした。

閑々子(かんかんし)
1752(宝暦2)〜1827(文政10)
阿波国三好郡州津村(現・三好市池田町州津)に生まれた。閑々子は号。幼名は八重八。幼時に徳島観音寺の快観上人の門に入る。のち慈雲尊者、東大寺ほかで学び、徳島の各地を修行。勝浦郡中田村(現・小松島市中田町)の成願寺を再建した。博学で詩書に長じ、画は亀、蟹、海老、蛙などを題材とした作が多い。

鉄 復堂(てつ ふくどう)
1777(安永6)〜1843(天保14)
家は代々名東郡佐那河内村の農民であったが、父の代に徳島に出て藩に仕えた。名は顕考・煥。復堂は号。藩儒・那波網川に学んだのち上京して古賀精里の学僕となり、さらに加賀藩に招かれて儒学を講じた。のち父の意向で帰藩したが、藩からの招聘には応じず、貧困の中、生涯を町儒として過ごし、新居水竹ら多くの人材を育てた。書画にも巧みであった。

新居水竹(にい すいちく)
1813(文化10)〜1870(明治3)
徳島城下富田中屋敷(現・徳島市富田橋)に生まれた。幼名は百太郎、通称は与一助。鉄復堂・岩本贅庵に師事し、江戸昌平黌に学んだ。藩主の侍講や江戸長久館の教授、のちには学頭となった。明治3年の庚午事変の際に檄文を書いたことにより切腹。思いやりが深く、人望も厚かったという。

柴 秋邨(しば しゅうそん)
1830(天保元)〜1871(明治4)
徳島城下紀伊国町(現・徳島市)に生まれた。名は維卯・萃。四歳で父と死別し、八歳で丁稚奉公に入ったが、医師・河野弘(海門)に見出され門弟となった。その後、儒学を新居水竹に、のちには江戸で大沼枕山に学んだ。また、大阪では広瀬旭荘に入門し塾長を務め、さらに豊後日田の咸宜園でも教えた。帰藩後は思済塾を開き、藩儒・文学教授となったが、庚午事変に同調したことで処分を受け42歳で没した。酒を好み、酔余の作が多い。

泉 智等(いずみ ちとう)
1849(嘉永2)〜1928(昭和3)
阿波国麻植郡(現・吉野川市)に生まれた。幼名は直蔵。号は物外。12歳で出家し、16歳で柴秋邨に漢籍を学ぶ。19歳頃より高野山などで仏教学を究めた。のちには京都の仁和寺門跡、泉涌寺長老、さらに真言宗総本山金剛峯寺座主、真言宗連合総裁、三派合同古義真言宗管長など多くの重職を歴任した。詩を作り書をよくし、画は山水、四君子を得意とした。

都郷鐸堂(つごう たくどう)
1858(安政5)〜1944(昭和19)
阿波国一宇奥山村伊良原(現・美馬郡つるぎ町)に生まれた。名は角太郎。少年時、懐素の書を好んだという。名東県師範学校卒業後、小学校訓導となり、のち和歌山に渡ったが31歳で帰郷。52歳で退職するまで小学校長などを務めた。独自の書論を唱え『筆道革新歌』『草訣百韻歌刪修』『大正草字鑑』などを発表した。54歳頃より視力が衰え始めたが、子や養女に手を引かれ全国各地を遊説。晩年には盲目になりながらも書作を続け、草書の傑作を多く残している。

富永眉峰(とみなが びほう)
1905(明治38)〜1987(昭和62)
徳島市新南福島に生まれた。名は三喜男。昭和7年文検習字科に合格。のち炭山南木に師事し、昭和28年日展に初入選、以後6回入選した。徳島県書道協会会長などの役職を歴任し、昭和57年徳島県文化賞を受賞。俳句は「航標」同人として活躍し、肉筆句集『百句集』『八十路』がある。

木村知石(きむら ちせき)
1907(明治40)〜1983(昭和58)
両親は徳島県名西郡石井町の出身で大阪に生まれた。名は政信。17歳で黒木拝石に師事し、昭和17年の東方書道展で推薦賞を受賞、のち日展特選、文部大臣賞などを受賞し、日展参事となった。また51年には日本芸術院賞を受賞した。玄雲社を主宰し、朝日現代書道二十人展のほか日本代表としてパリ、ニューヨークに出品するなど活躍した。

田中双鶴(たなか そうかく)
1912(大正元)〜2000(平成12)
阿波郡市場町(現・阿波市市場町)に生まれた。名は繁夫。尾上柴舟、津金隺仙、大石隆子らに師事した。徳島大学、四国大学で書道教育に力を尽くすとともに、月刊誌『鳥跡』を刊行し県内書写書道教育に大きく貢献した。また貫名菘翁、柴秋邨、閑々子の研究や菘翁美術館の開設、社会福祉事業への参加など幅広い業績を残した。徳島県文化賞、徳島新聞文化賞を受賞している。

荒井天鶴(あらい てんかく)
1914(大正3)~2007(平成19)
徳島市に生まれた。名は萬壽男。天鶴の号のほかに、真十生、荒白愁、荒靖蘭、庵名に無尺がある。師に就かず独学で書に取り組んだ。昭和23年、県内初の書道結社「徳島書道院」(のち徳島書芸院と改称)を創設、月刊誌「彫琢」を創刊した。以来、文学と書の一体化を唱え、県内の書道人育成や書壇の発展に尽力。県展に近代詩文書部門を新設するとともに、その第一人者として県書壇を中心になって牽引した。著書に書論『一本の道』、作品集『照魔鏡』ほかがある。

田中松亭(たなか しょうてい)
1915(大正4)〜1987(昭和62)
名東郡北井上村(現・徳島市国府町)に生まれた。名は正四。徳島師範学校卒業後、昭和17年文検習字科に合格し書道教師になった。鈴木翠軒に師事し、昭和24年日展に初入選。月刊誌『書』を発行し、日本研書会を主宰。昭和35年日展で特選苞竹賞を受賞、日展審査員・日展評議員を務めた。

久保幽香(くぼ ゆうこう)
1930(昭和5)〜1999(平成11)
徳島県那賀郡木頭村に生まれた。名は清子。19歳で荒井天鶴に、のち金子鷗亭に師事した。昭和36年に日展入選後、15回入選。毎日書道展毎日賞、徳島県芸術祭大賞を受賞。昭和54年東玄書道会を創設し、近代詩文の普及と後進の指導に尽力した。県内高校書道講師や徳島文理大学文学部教授など書道教育の発展にも努めた。

勝瀬景流(かつせ けいりゅう)
1941(昭和16)~2011(平成23)
小松島市に生まれた。名は文夫。若くして中央展で入選入賞を重ね、19歳で毎日展入選、20歳で日本ペン習字研究会審査員となった。24歳より高木聖鶴氏に師事し、29歳で光輪社を創立。その図抜けた天性と努力で、仮名作家として独自のスタイルを築いた。平成8年(55歳)、10年と日展で特選を受賞。18年、23年には日展審査員に就任した。日展会員、読売書法会常任理事、日本書芸院常務理事ほか多くの重職を歴任。徳島新聞文化賞などを受賞した。